emotional flutter

the tear flows because of tenderness.

演奏の終わりに - 少女たちはいかに現代社会を揶揄したか- 響け!ユーフォニアム論①

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このブログ はサイコソーシャルに生きる社畜奴隷が分かり手(このワードの意味は後で追記)にならざるを得ない作品についてただただ独白し続けるブログです。

記念すべき一発目はつい最近放送が終わったTVアニメーション響け!ユーフォニアム」シリーズから。(まずは一期の振り返りから。二期は次の記事で書きます。)

 

・青春部活モノを被ったリアリスティックソーシャルリフレクション=ユーフォ

 

 

一期、二期と見続けて改めて思ったのが

あっ、社会」

といった所感でした。(日々精神をすり減らし奴隷のように働く悲しい生き物としての切実な答。)

相変わらず京都アニメーションの原作モノ調理はズルくて、現代社会を反映させる、させてしまっている(作者の意図はとりあえず排除)作品をアニメーション化する才能の塊集団だと思ったのです。そもそも京アニは作画の美しさもさることながら、シーンに合わせた雰囲気作り、演出、カメラワーク、セリフの間合い、どれにしてもため息がでるくらいにに上手い。こころの琴線を抉る。エモーショナル。

響け!ユーフォニアムの特徴として挙げられるのが

・久美子の独白

・登場人物全員「優しさの理由」の空回りと「こうどなじょうほうせん」

だと個人的に感じます。あとついでに久美子役の黒沢ともよさんの声がまた良い。非常に良い。良い。

で、なぜに「社会」を感じたかというと物語の節々で昨今の日本社会を感じるシーンやキャラの掛け合いがとってもとっても多い気がしたのです。

無論、独断と偏見の自己満足批評です。

 

・持てる者の義務

まず一期の8話「おまつりトライアングル」で私は、このアニメ、やりおる。

と感じました。

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麗奈

「ねえ・・・お祭りの日に山に登るなんて馬鹿な事、他の人たちはしないよね。私、興味の無い人とは無理に仲良くなろうとは思わない、誰かと同じで安心するなんて馬鹿げてる。当たり前に出来上がっている人の流れに、抵抗したいの。全部は難しいけど、でも、わかるでしょ?そういうイミフメイな気持ち。

わたし、特別になりたいの。ほかのやつらと同じになりたくない。

だから私はトランペットをやってる。特別になるために。」

久美子

「トランペットやったら特別になれるの?」

麗奈

「なれる。もっと練習してもっと上手くなれば、もっと特別になれる。自分は特別だと思ってるだけのやつじゃない。本物の特別になる。」

 

 

 

もうこのシーンだけでノックアウト。クッソエモい。

思春期にありがちな自己啓示欲及び自己承認欲求かな?とか一瞬思ったけどすぐに消え失せました。麗奈はノブレスオブリージュ(持てる者の義務)を持っているし、その言葉を言い放つだけの権利がある子です。個性、没個性と彩を勝手に決めつけられる時代に、徒党を組んで安心しとる奴らや(向井秀徳風)自分を殺して埋没する有象無象共とは違う、高校生にして独我論染みた思想を獲得しているのです。


二枚目の画像、左上には二つの星が見えます。 一つは大きく輝いていて、一つはまだ小さく控えめに光っています。

心象スケッチ…。この場合描写として、大きい星が麗奈で小さい星が久美子です。

目標や目的を定め自分を貫いて生きている麗奈に対し、久美子はまだこの時点で自分を獲得していません。北宇治高校吹奏楽部の中で、空気を読みながら、波風立てぬようふんわ〜り生きていたこの時の久美子は、この瞬間初めて「自我」を認識します。麗奈という人物を更新し、特別視するようになるキッカケでした。

そして、このシーンでかかっているBGMが「意識の萌茅」という曲名です。(オリジナルサウンドトラックに収録)

この曲がまた最高なんだな・・・。ここまで人をエモく高まらせることができる曲はそうそうないです。

 

二つの星は、その時点での2人を表象していました。

あと余談ですが、同時期に放送されていた「やはりおれの青春ラブコメは間違っている 続」の比企谷八幡君も、麗奈と同じような感慨で「本物が欲しい…!」と泣きながらエモくなっていました。あぁ、どいつもこいつも達観して現世に辟易しつつもり懸命に生きて一つの答えに辿り着いてやがるな、とぼくもまたエモくなったことを覚えています。

 

モノと情報にあふれたカオスな現代で、「本物の特別になる。」発言は奴隷の心を深く抉りました。なんといっても、著者自身が成長を諦めてしまい一周回って開き直ったラスカル顔(少し広角が下がったとびっきりの真顔のこと)で生きていた故、この少女のまっすぐで迷いのない決断に、自分がゴミだったことを思い出してしまったのです。

 

なんというか、そこはかとなく、時代を感じる。

この一期の8話で完全に自分はユーフォニアムおじさんになってしまいました。

毎週、毎週、見るときは謎の緊張感に包まれるほどに。

一期放映終了後、著者は京都に一人で旅立ち、冬の大吉山を登りました。

クッソ寒い中一時間ほど東屋で黄昏ながら、特別を願った一人の少女の願いが叶うよう私もまた祈りました。

当時はまだ人も少なく、夜景を独り占めできました。



そこでの景色は感傷マゾ男を殺しました。


 

 

・優しさの理由と実力主義と。

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コンクールに向けたオーディション。トランペットのソロを決めるオーディションで、社会を感じました。優子ちゃん、実は一期の放映当時は嫌いでした。デカリボンうざい。と思ってました。でも、二期を終えた後、僕は当時の自分をぶん殴りたくなるのでした。

 

改めて、コンクールに出られる人数は決まっています。努力をし、実力をつけ、オーディションに合格した「勝者」が舞台に立つことができます。「敗者」はチームに所属していても舞台に立つことはできません。運動部並みの部活動で休みも惜しんで練習し、青春の二度とはない時間を費やし、彼女たちは各々の思いを胸に日々を営んできました。それだけでも胸がいっぱいになるってのにもうエモエモストリームバルカン砲を食らった回がこの話でした。


麗奈と香織先輩のオーディション対決は個人のポジション争いというだけではなく、香織先輩、優子ちゃんたち三年生勢と麗奈、久美子たちの一年生勢の世代対決でもあったと感じます。 もちろん、内情としては優子ちゃんの「優しさの理由」(香織先輩を思うが故の私情)であって香織先輩自身は不本意だったかもしれないし、

あすか先輩に関しては永世中立国の権化みたいなスタンスをとるまであるし。

三年「私たちは最後なの・・・。これでおしまいだから実力は無いけど憧れの舞台に立たせて!勝ち逃げしたい!」

一年「理不尽な縦社会すか?上が起こしたゴタゴタの尻拭かよ・・・年功序列死ね」

 と、ものすごく捻じれたとらえ方をするとこんな感じなっちゃいます。嗚呼社会。

 

でも、結果、そうはならなかった。

滝先生の平等で公平な最も合理的、且つ民主主義的審査方法である多数決の原理が実行された。必然的に上手い人が勝つ。下手な人が負ける。民主主義を内包した圧倒的な実力主義。いや、もはや新自由主義。持てる者が勝つ。待たない者が負ける。圧倒的現実。

 f:id:hakanami:20170120121457j:plain  麗奈の両サイド、複雑な思い。

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香織先輩「でも、これで良かった…。」(何かを諦めたような優しい微笑。)

 

 

はい、死んだ。

スーパーエモーショナルフラッターおじさん。深夜にTV前で咆哮する。

別に誰が悪い、とか、そういうんじゃなくて、たぶんみんな正しいし、それぞれの思いがあって、その結果コンクールは金賞。関西大会出場につながるわけで。

その日、確か深夜2時くらいに外に出て公園でココアを飲みながら夜空の星を無意味に眺めてました。特に意味はないです。そうしたかった。

 

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 久美子

 全国に行けたらいいな・・・。中学生のころからそう思ってた・・・。

 でも、本当に実現させようなんて一度も思ったことはなかった。

 だって、期待すれば恥をかく。

 叶いもしない夢を見るのはバカげたことだって思ったから

 だけど、願いは口にしないと叶わない。

 絶対に、全国に行く。

 

これ、奴隷には辛辣でした。妥協した人生を送っている人たちに止めを刺す真理の独白だったと思います。限定はしませんが、大抵の人類、特に現代日本に生きるピープルたちに痛烈に響きわたったんじゃないですか。(当社比)

 

コンクール前に退部していったあおいちゃん、そして二期でフォーカスが当てられる麻美子お姉ちゃんと、「レールから退場」していく(していった)人物の描き方も、たいそうエモい。

現代社会に静かに暴力を振るわれている人種のような気がして、いたたまれなくなったりもした。

 

一期で特にエモく感じたことを駄文でまとめました。

次の記事では二期について書きたいと思います。